「ひょうたんや」創業秘話

読みもの

「ひょうたんや」創業者の先代中嶋泰蔵は、軍靴の音が近づく第二次大戦前夜、当時日本最高峰の料理人のみが集う、大阪「南地 大和屋」の料理人であった。

妻正江(初代女将)も大阪天王寺動物園の前で酒屋を営みながら、料理人で多忙な泰蔵を甲斐甲斐しく支えていた。

終戦後、焼け野原となった大阪から故郷である近江八幡に戻った。
JR近江八幡駅の自転車預かり所の軒下を借り、手探りの状態で料理店を創業した。それが今日に続く「ひょうたんや」が産声を上げた瞬間だった。泰蔵の作る料理の味・技・センスは素晴らしく、その噂を聞き、沢山の弟子たちが見習いに集まった。
泰蔵はふぐ料理に於いても、京都にふぐ組合ができた際の最初のメンバ-の一人として活躍した。そこで名料亭の親方達との出会いが今日のひょうたんやの日本料理としての礎を築くきっかけに。もちろん、滋賀県で最初にふぐ料理を持ち込んだのも泰蔵であった。

料理界に大きな足跡を残した泰蔵だが、酒好きがたたり病に倒れ、惜しまれながら若干49歳という年齢で他界した。
京都府「高台寺の霊山観音」様の右側後方にふぐ塚と並んで泰蔵の石碑が奉納され、今もひょうたんやを見守ってくれている。
さて、今のひょうたんやの「つゆしゃぶ」や「近江牛」が美味しいといったイメージがあるが、創業当時は「寿司」が美味しいお店といったイメージだったようである。それには、こんな昔話がある。ある日、お百姓さんがお米を持ってこられ、「ひょうたんやさんこれで何か作ってくれんかなぁ」との一言から、泰蔵がちらし寿司を作った。それが金田村の人に「美味しい!」との噂が広まり、そこから「寿司」の美味しい店とのイメージが出来上がったようである。

その後、本来の日本料理も評価され、そして今では近江牛を使った料理献立で、東京・京都に進出し、今のかたちの「ひょうたんや」となっていったのである。
“いつの時代も暖簾を出し続ける”

~豆知識~
「ひょうたんや」の屋号の由来は、商売繫盛の神様伏見稲荷大社
の「ひょうたん大神」様に由来している。

中嶋和義

中嶋和義

創業75年の和食経営者。東京・京都・大阪・滋賀で店舗設営から経営を行ってきた。 店舗設営や器選び、季節に合う食材選びなど多岐にわたる「和食コーディネーター」 自ら包丁を握る経験と、経営者の目線で新時代の和食を展開する。